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沖永良部島 訪問


沖永良部島

2012717日(火)

結婚して39年が過ぎた。来年の5月になれば40年の節目になる。今では二人の子供も独立して所帯を持ち、二人の孫にもめぐんまれた。毎月決まった年金が入ってきているので、それで暮らしている、まさに年金生活者であります。

それでも少しは変化を求めて、ゴルフをしたり、ボーリングをしたり、時間を見つけてスポーツジムに通う毎日ですが、機会があれば当時新婚旅行に訪れた沖永良部島に行ってみたいと言う願望を持っていた。

そのようなところにFDA(フジドリームエアー)より、3周年記念のプロモーションのメールが舞い込んだ。

富士山静岡空港から、全国どこへでも¥8000で行けるというのだ。通常¥26000くらいかかるので、かなりお得だ。ただしメールでの申し込みだけで、抽選の数名だけの特典のようだった。すぐに、応募してみたら、めずらしく当選した。従って、急遽、7月の17日に沖永良部へ出かける機会が出来た。

静岡空港から鹿児島までFDAで飛んで、ここから沖永良部まで日本コミュータ(JALの子会社)で沖永良部まで直行であります。とにかく安くいける計算ですので、かなりお得感を持って自宅を出たのが午前910分でありました。

新東名高速を使って富士山静岡空港までわずかに50分くらいで到着、楽しい旅になると思いこんで軽い昼食をとりました。この富士山静岡空港は静岡県のほぼ中央に位置し、東洋一の茶畑である牧の原にあります。名前にそぐわないで、富士山が見える日は年間でも少なく、私は何度訪れても富士山を見た事はないのであります。しかしこの2012717日(火)は快晴で東の空にくっきりと形の良い富士山が見えました。

  
これが富士山静岡空港からみた富士山です。たまたま大韓航空が着陸してきたところでした。(2012年7月17日撮影)

右の写真は、沖永良部島で撮影したハイビスカス(これは2012年7月20日撮影)

静岡県人でも、これはきれいな山だなと実感できるその姿に感動いたしました。ここは少し高台にありまして、すっきりと晴れ渡る日が少ないのではないかと思います。でもきれいな富士山を見て午後020分に鹿児島空港に向けて離陸しました。

所がであります、昨日発生した台風がなんと沖永良部島の真上を通過する予想で、予定のflightは欠航と相成りました。しかたなく、鹿児島空港の前にあるホテルを確保し、沖永良部のホテルに本日は台風で行けない旨のメールを打って初日が終わりました。

よくあるアクシデントですが、沖永良部のホテル代と夕食代、そして鹿児島空港のホテル代が加わって、せっかくFDAのプロモーションの恩恵がチャラになってしまいましたが、飛行機の離発着をホテルの窓から眺めながら鹿児島の芋焼酎を飲んでいます。たぶん、また数年過ぎると老夫婦の会話の中に、台風のおかげで鹿児島空港の前に泊まったっけねえ・・・・と言う会話がなされることでしょう。夕焼けの空の中に真っ白な入道雲が存在し、その前を真っ黒な台風雲がかなり早い動きで横切っていく光景も珍しい光景として残っていくでしょう。九州の北部の地方はここ数日の長雨で多くの被害が出ています。この台風でさらに被害が拡大するかもしれないので、心配です。

明日は一番機で沖永良部に向かいます。

2012-7-18 の朝、鹿児島空港ホテルにて起床し、すぐに空港までリムジンバスに乗る。

天候はまだ台風の影響が感じられる雲行きでしたが、なんとか離陸し、沖永良部には午前930分に到着しました。

予約してあったホテルの車が迎えに来てくれていました。

午前中はホテルにて休養し午後から和泊の街並みを散策しました。夏の暑い日ざしを受けながら歩く道には私ども以外は歩く人はいませんでした。多くの人たちは車で移動していますし、その車もエンジンを掛けっぱなしで車内のエアコンをつけたままで用事を済ませている人が殆どです。

40年前、ここに来た時と殆ど同じ風景を味わえました。もちろん、道は舗装されていますし、信号もつきましたが、のんびりとおっとりしている雰囲気は変わりません。

40年前には困った昼食も、今回はレストランを見つけることが出来ました。

西郷南州(隆盛)の記念館が出来て1年丁度になるのだそうです。

ここに入って、西郷さんと沖永良部島との関連を勉強して2時間くらいをつぶしました。館長さんにご説明をしていただきました。 とても勉強になりましたので、詳細を下記いたします。(2012-7月18日撮影)

  
この中央が西郷隆盛が当初、閉じこもっていた牢屋のあと、右の写真は西郷南州記念館の前で、家内と共に記念撮影。

西郷隆盛公は文久2年(1862)、薩摩の国父・島津久光公の怒りにふれ沖永良部島へ流罪【るざい】となり1年6ケ月牢獄生活をされた。隆盛公、35歳の事である。
牢中の隆盛公は常に正座し読書に耽【ふけ】り、牢外に集る若者たちに古今聖賢【せいけん:賢人】の道を教え、また台風やかんばつ、飢饉に備え豊年の時に皆で米や麦などを高倉に蓄えておき凶年の時にそれを配給するなどの手法「社倉法」を伝授した。
受け継いだ島民により明治3年(1870)には沖永良部社倉が設立されるなどこの島に多くの余徳を残したのだそうだ。敬天愛人の精神はここ沖永良部の牢屋で育まれたものであり、明治維新の成功の鍵がこの沖永良部にあった事を島民が誇りに思っているのが感じられました。

井伊直弼【いいなおすけ】が尊攘派に対しておこなった弾圧事件、世にいう「安政の大獄」によって僧・月照【げっしょう】と西郷は絶望し錦江湾に身を投じ自殺未遂をはかった。奇跡的に西郷のみが助かったが武人としての恥として苦しみ、藩からの命令もあって3年間奄美大島で潜居生活を送った。
その後、召還命令によって再び藩士としての勤めを行うも国父・島津久光の上京計画の際、それを薩摩藩が倒幕に踏み切ったと勘違いした一般の浪士や他藩士らなどを諌めに大阪入りするが、命令に背いたとして西郷に激怒した久光により、徳之島〜沖永良部島と流罪になるのである。
そんな波乱にみちた西郷隆盛公であるが、ここ沖永良部の過酷な牢獄生活のなかで精神を練磨し彼の思想として完成させたのが有名な「敬天愛人」【けいてんあいじん】と言われている。「敬天愛人」とは
「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を敬するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛する心を以て人を愛する也」

つまり「何事でも道というものは天地自然によるものであり、人はこの道に沿って物事を行うべきものであるから、何よりも天を敬うことを目的とすべきである。天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」ということである。

この隆盛公の思想は西郷南洲翁遺訓というものに纏められ書として出版されている。佐幕派(対倒幕派)であった庄内藩(山形県)が明治維新での戊辰戦争【ぼしんせんそう】によって敗北したにも西郷の温情ある処置に感激し、慕うようになりその教えを学び纏められたそうである。この事からも隆盛公の人物としての大きさ、そして人として生きるべき正しい道というものを教えられるような気がする。

 

なにもない島、なぜこの島を新婚旅行の地に決めたのか、今でも分かりませんが、このような歴史とロマンがあった事を、なんとなく、良かったなと思います。

近くのスーパーでビールとつまみを買い込んでホテルの部屋でくつろぐ一日になりました。

 

2012-7-19(木)

40年ぶりに訪れた沖永良部の観光をレンタカーを借りて、体験してみました。あさの9時にレンタカーの事務所に行って手続きをして、和泊から北に向けてスタートし、反時計回りに島を1週しました、まず到着したのが笠石海浜公園であります。和泊から5分くらいのところにありました。

  
ここが笠石海岸です。                     正面にあるのがゆりの花をイメージした展望台

ここは海浜公園ということで、広い公園になっており、イベントなどがある際に使われたりもできるようなステージもあります。また、キャンプの施設などもあるので、いろいろと使い勝手がいいと思います。
自然を中心に舗装された公園ですので、とても気持ちがよく、徒歩で歩き回ってウォーキングなどをしてもいいのではないでしょうか。そして、ここは海水浴場にも指定されていますので、泳げます。 沖永良部は花の町として力をいれており、その代表的なものの1つであるテッポウユリという白い百合の花をイメージした展望台が、ここにはあります。ここからは太平洋を一望でき、海からの爽やかな風を感じることができました。

実は観光パンフレットには載っていませんでしたがフーチャ海岸の数キロ北側にハマユウの群生地がありました。丁度見ごろでした。エラブゆりの花は5月が見ごろですので、7月の今はゆりが見れません。かわりにハマユウがきれいでした。

ここから車で数分のところに日本一のガジュマルの木がありました。  日本一のガジュマルがある国頭小学校です。このガジュマルは明治31年【1898】に国頭小学校の第一回卒業生が植えたガジュマルが大木となって現存しています。この木は横に大きく成長していくので、高さが約7mに対して、枝張りが約22m、そして幹回り約6mとなっています。日本一の大きさにもなったことから、新日本銘木百選にも選ばれています。
このガジュマルは自身の枝を自分で支えるのが困難になってきているので、所々、鉄柱で支えられています。ガジュマルの木は南西諸島などの南の島に多く、亜熱帯から熱帯の地域に自生するクワ科の植物で、いちじくの仲間です。ガジュマルの特徴的なところは「気根」という根を幹や枝から垂らし、それが地面について成長すると元の幹と区別がつかなくなり、遂には古い幹は枯れ、新しい気根が新しい幹となります。

  
これが日本一のガジュマルの木です。大きいですね。  小学校の校庭に植わっていました。

このガジュマルの木を見た後にフーチヤ(潮吹き洞窟)を見学しました。  沖永良部空港近くの東シナ海側に位置していて、比較的、波の荒い場所です。ゴツゴツした岩場と、切り立った崖が特徴的です。また、ここには1番の特徴があり、1箇所だけ岩場の中に穴が開いてる場所があって、そこから打ち寄せる波を見ることができます。細い道があるので、その通りに歩いていけばそこにたどり着けます。
台風のときなど波が強いときは、その穴から波が吹き上げ、とても迫力のあるものを感じられると思います。また、ここは地元の人の釣りのポイントにもなっています。
地元の人ならではの抜け道が存在し、それぞれ自分のポイントで釣りをしています。

  
このように大きな穴が開いていました。 覗きますときれいな海が波打っていました。

   これがフーチャ海岸に開いている大穴です。(写真参照)写真だと、迫力までは伝わりませんが、実際にその目で見てみると、とても雄雄しいものを感じます。台風時には潮が吹き上げて、圧巻なのですが、あまり近づくと危険です。今回は潮を噴き上げる姿を見ることが出来ませんでしたが、40年前には、見ることが出来ました。数少ない沖永良部の観光SPOTであります。現在は穴は1つだけですが、昔は3箇所ほどあってみたいで、そこから吹き上げる潮によって、近辺の畑に被害をもたらしていたため、昭和38年に1箇所を残してふさがれたと現地の案内板に書き込みがありました。

車でさらに10分くらい走りますとワンジョビーチに到着いたします。この浜辺で新婚当時泳いだ記憶がございます。  東シナ海側に位置していて、砂浜が広がっていてとても泳ぎやすい海水浴場です。
ここは浅瀬がつづいて、また、リーフで囲われていて波の影響も少ないので小さな子供とでものびのび泳げます。
浜の周りは崖があり、その崖の下には湧き水がありこのい湧き水が海岸の砂浜からも出ていました。島にとって貴重な水資源の確保が出来たこのビーチは大変重宝であったと思われます。。
そしてアダンの林が続く遊歩道などもあります。海水浴からシュノーケリング、ダイビングまでできる南の海を満喫したい人向けのビーチで、トイレ、シャワー、脱衣場などが整備されています。
また、ビーチの手前200メートルのところにあるソテツのジャングルには遊歩道が設けられています。今回はここの遊歩道は濡れているので歩きませんでした。  「ワンジョ」は「湾門」とかき、沖永良部島には珍しい湾状の海岸であり昔は港として門の役割をしていたことからついた名前のようです。 昔に港として使われていたころ、遣唐使の寄港としてや、日本本土や海外諸国とを結ぶ海上交通の要所として使われていました。現在の港は隣の伊延港にうつっています。大きなフェリーの出入りも見れました。海水浴場の後ろには、昔ながらの墓地があり、砂がきれいに敷き詰められています。
この海で40年ぶりに泳いで見ました。泳いだ後は気持ちよく肌に南国のそよ風が当たりました。

その後、このビーチのがけの上に海がめビューポイントがあったので望遠鏡で眺めたのですが海がめには出会えませんでした。(しかし、後から行った田皆岬で肉眼でも見ることが出来ましたよ)

さらに車を飛ばして東シナ海に突き出ている 半崎と言うところに行って見ました。  ここは正しくは黒瀬半崎という場所です。東シナ海に面した岬で切り立った崖と美しい海面が特徴的です。
田皆岬ほど有名ではありませんが、そことは一味違ったすばらしい景観が楽しめると思います。また、そこから軍艦岩という岩がみえるのですが、ボートでそこまで行って釣りする人のポイントでもあります。

和泊の港の近くにタラソおきのえらぶと言う施設がありました。 

タラソテラピーという海洋療法をとりいれた施設になります。
ここでは沖永良部島の海水を利用したジェットバスでの全身マッサージや、ブルターニュ産の海藻を使った温熱刺激のパックなどが行えます。他にも海水を使って、疲労回復や、筋肉の血行促進などの効果があるプールなどがあり、全身をリラックスさせて癒される場所だと思います。

車で島を縦断し越山公園にやってきました。    沖永良部には山が2つありますが、そのうちの1つがこの山です。ここからは和泊町内が一望できます。また、ここには戦争中は陸軍の陣地が置かれていました。
そのため頂上には、戦没者慰霊塔や句碑・歌碑と共に展望台などがあります。そして和泊町町政施行50周年を記念して躍進する和泊町の未来と題したモニュメントが建てられていますが、この写真がそのモニュメントです。一年を通して花々が咲き誇っていて、遊歩道のある緑あふれる自然公園で、島民の憩いの場となっています。

          
頂上の展望台にあるモニュメントです。          これが世の主の墓の入り口。鍵がかかっていました。

頂上からの景色を満喫した後、すぐ近くにある世の主の墓に行って見ました。

世之主の墓は、沖永良部島の中央にある。世之主(真松千代)は西暦1400年ころ、沖永良部島を統治していた人。

世之主、真松千代の母は沖永良部の人。琉球が北山、中山、南山と別れていた時代、北山に働きに行ったとき、北山王に気に入られ、妾の女となり、子供を身ごもってしまった。真松千代の母は沖永良部へ帰り、真松千代を生んで育てたのだ。真松千代が17歳になったとき、真松千代は北山王に会いに行き、子供として認められ、沖永良部島の世之主となったのだ。
世之主のまつりごとは民衆に慕われる立派なものだったという。優秀な四天王と呼ばれる4人の家来もいた。世之主は中山王の姫を奥方(真照間慕之前)をもらい、嫡子を1人もうけたという。

しかし、琉球の北山、中山、南山の戦いが激しくなり、中山は南山を陥れ、北山も滅ぼした。中山は世之主の奥方が中山王の姫であるため、沖永良部島へ和睦の船を差し出したが、世之主はこれを軍船と勘違いし、大国には勝てないと判断し、自害したという。
また、別の説では、北山の和睦の船に四天王たちが様子をうかがいに行ったところ、北山から酒で歓迎を受け、四天王がなかなか戻ってこないため、世之主が四天王たちが討たれたものだと勘違いし、自害したという説もある。

世之主の墓には、中央に世之主と、殉死した奥方、嫡子の3名が、四隅には殉死した家来の四天王の4名(後蘭孫八、屋者真三郎、西目国内兵衛、国頭弥太郎)が眠る。

 

ここから知名の街に向かう為に山を降りた。途中、ウジジ浜というビーチがあった。    沖永良部の太平洋側にある海岸で、この海岸の特徴はなんと言っても、海から立ち上がるように突き出たいくつもの岩です。
長い年月を経て、岩が波によって削られたことによってできた独特な海岸で、シルエットだけ見ると、海からキノコが突き出しているようにも見えます。また、沖合いは浅瀬になっているので、ダイビングポイントにもなっています。

   
朝日の昇る時のウジン浜です。2012年7月20日の早朝5時にホテルを出て、ここに5時20分に到着しました。日の出は5時37分でしたが、入道雲があったので、この写真は5時45分のものです。本当にきれいでした。

よく島人がシュノーケリングで魚をとっている姿を見かけるものです。また、朝の風景は幻想的で早起きは少々きついですが、ここから見る朝日もまた格別だと思います。    ウジジ浜は、上部がふくらんで傘のようになった奇岩が立ち並ぶ岩礁海岸です。これは、石灰質の岩が、長い年月にわたって波や海水の化学物質による侵食を受けてできたものだそうです。その形はまるで人工物のようなふしぎな光景です。島の周りはサンゴ礁となっていて、ウジジ浜などの海岸に真っ白な砂浜があるが、島が隆起し続けているので大規模な砂浜は少なく、切り立った海岸が多いです。

この浜から知名の街並みを通り過ぎると屋子母ビーチに出会えました。   ビーチロックにほど近い場所に位置しています。一応キャンプ場との案内もありますが、ここでは海水浴をメインにしても良いでしょう。現にこの日は数人の人がスノーケルンで泳ぎながら魚を追いかけていました。ここには民宿もあり、興味がある方はいってみるのもいいかもしれません。また、この近くに地元の人にしか分からない小さな川?があり、海水浴の後にシャワーの変わりにそこで水浴びが出来るのだそうです。シャワーとトイレの設備は海岸にありました。    この屋子母海岸はとても穏やかな海水浴場だと思います。規模としては小さな海水浴場ですが、写真で見ても分かるとおりリーフで囲まれている部分が比較的狭いので、大きな潮の流れがありません。沖永良部島に限らず、どの海水浴場にも必ずといっていいほど潮が沖に流れるポイントが存在するのですが、ここにはそういったポイントがありません。安全な海水浴場だそうです。軽く泳ぎたい人にはお奨めだと思います。  

すぐ近くにビーチロックがあります。    沖永良部の大津勘というところにあります。ビーチロック・・・たぶんこの名前だけでイメージできる人は少ないと思います。
ビーチといえば「砂浜」というイメージでしょうが、この海岸は砂浜というよりは、「岩浜?」という感じです。私はあまり好みのビーチではありませんでした。
ゴツゴツした岩ではなく、緩やかな岩が敷き詰める海岸です。
ここは一般的にはとても珍しい海岸であると共に、島全体が石灰質である沖永良部島らしい海岸ではないでしょうか。沖永良部島はあまりサーフィンなどの名所ではありませんが、ここでは地元サーファーが波乗りをやっていることもあります。ちなみに知名町の指定文化財になっている海岸でもあります。

その後、沖永良部の代表的な観光地である昇竜洞に行って見ました。    永良部島は石灰質なので、島全体に鍾乳洞がはりめぐっています。
とても広範囲で複雑に入り組んでいるので、全てを確認するのはなかなか困難です。ですが観光向けに開放されている鍾乳洞のが、ここ「昇竜洞」です。

   

沖永良部島にはいくつか規模の大きい鍾乳洞がありますが、「昇竜洞」もその一つです。太古の昔より長い年月をかけて作り出された、自然による美しさを感じられる神秘的な場所です。
ここは是非、その目で見て、感じて欲しいです。ちなみに映画「八つ墓村」で撮影に使われた洞窟です。   海底でサンゴなどが堆積することによってできた石灰岩が地殻変動によって地上に隆起した場合、雨水や地下水によって侵食を受けます。 ただ、一般の岩石とは異なり、石灰岩の主成分である炭酸カルシウムは酸性の液によって溶けます。つまり、二酸化炭素が溶解した地表の水にはよく溶けるので、通常の岩石より激しく浸食されて、その内部に多くの空洞を生じるようになります。そうした事を何万年もの月日をかけ鍾乳洞は誕生するのです。40年前に来た時の記憶は薄らいでいるのですがこの昇竜洞はかなりはっきりと覚えています。それだけ迫力を感じたのでしょう。今回もうす気味悪いくらいに記憶に残りました。私が見てきた多くの鍾乳洞の中では中規模くらいでした。まだまだ未開発のところがあるので、すばらしいものが眠っているものと思われます。

ここを見た後に、最も高い山である大山展望台まで脚を伸ばしました。沖永良部島の南部、知名町の大山にある、植物公園とその中にある展望台です。
植物公園といっても、展望台の周りに熱帯の木々植えられているといったところだ。木々に詳しい人が見ればすごいことなのかもしれないが私には分かりませんでした。
展望台は海抜240mのところにあり、展望台に登れば島を360度一望できました。越山公園展望所より眺めはいいけれど、展望台の一番上からの眺めよりも、螺旋階段の途中から眺めるほうが眺めはいいと思う。何も無いところですが自衛隊の通信基地が目立ちました。

ここからの下り道がいくつかの選択肢があるみたいでしたが、私たちは沖泊海浜公園を選択しました。    漁港としても使われていますが、その奥に海岸があり、海水浴やキャンプ場などの施設があります。田皆岬からも近いこともあり、白い砂浜と、そこから断崖絶壁の海岸が見えたりと、沖永良部の西海岸側の特徴が出ている海岸です。
実際に砂浜に降り立ち、目の前にはリーフの広がる海、そしてバックには自然のままの木々が茂っている崖というのは、とても素晴らしい風景なものです。また、ここは映画の撮影にも使われたことがあるのですが、ゴジラシリーズの「ゴジラVSスペースゴジラ」でのゴジラの上陸シーンなどに使われました。

そして沖永良部最西端である田皆岬へ行ってみました。    切り立った崖になっておりますが、ここから見える景色は絶景の一言です。
真下には透き通った海からのぞくことができるさんご礁、目の前にはどこまでも続く水平線。たまたま、ここに1台の車が止まっていまして二人の若い男性でした。この方が先にスタコラサッサと岬の先端の方に歩いて行ったのです。私たち老夫婦は暑さの精もありまして、ゆっくりと歩いていたのでした。そしたらこの若者が、海がめが見えるよー、と声を掛けてくれました。急いで先端まで走り寄ると、眼下の海はコバルト色になっていました。その海の上に4匹の海がめが泳いでいました。わずか数十秒の事でした。すぐに海がめたちは深く潜っていきました。呼吸が苦しくなると浮かんでくるのだそうです。

  
ここが田皆岬の先端、きれいでした。           私のカメラをズームアップして撮った海がめの雄姿。

すばらしい体験が出来ました。

沖永良部島は「基盤岩」という、恐竜などの栄えた時代である約2億年前にできた極めて古い地層と、その基盤岩の上に形成されたサンゴ礁(約180万年前から形成され琉球層群)が隆起してできた島です。この田皆岬は、沖永良部島でも基盤岩と隆起サンゴ礁の重なっている部分が見られる貴重な場所です。

 

島の南北は約50kmだそうですので往復100kmです。従って車で観光するならば1日で十分です。観光パンフレットに載っているほぼ全てを回ってみました。

40年ぶりに訪れたのですが、ここはすばらしい観光資源に恵まれているのです。花とダイブと鍾乳洞の島です。

外国へ行くよりも高い航空券が安くなることを祈念してペンを置きます。


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