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静岡歩兵第34連隊五條機関銃中隊玉砕の地、幻のイポを探す

2009年126
12
6日はゴルフの予定を変更して、ブラカンのイポというところを探しに行きました。静岡連隊の機関銃中隊である五條隊の玉砕の地であります。このイポは地図にも無く、インターネットの検索にも発見できない幻の地でした。今回の訪問で、是非とも慰霊をしてきたいとの強い思いがありました。

フィリピンの友人に聞いてもイポは知らないとのことでした。マニラの詳細な地図を眺めて、何処にあるのだろうと地図とにらめっこしましたが分かりませんでした。

 

実はこの静岡連隊の機関銃中隊 五條機関銃中隊の隊長は私の義父であります。親戚の者たちが集まるたびにこの義父の話が出てまいります。しかし皆、戦死地であるイポを知りません。本当に激戦地であったみたいです。いわゆる静岡連隊の玉砕の地でしたが僅か数名の方のみ生還して帰国されています。

そのうちの一人の方が帰国後しばらくして、“玉砕”という本を出版されました。この本の中に、かなり詳細な戦いの様子が書かれていると共に、戦友達の最期の地が、イポであると書かれています。そしてこの著者の手作りの地図がこの本の中にあるのですが、五條隊玉砕の地、イポダムと書かれているのであります。

60年以上も前にイポダムというものがあった。そこで玉砕したのです。従ってイポダムというものがあるはずなのですが、多くのフィリピン人は知らないと答えるばかりで、まさに幻の地になっていました。

 

但しアンガット川にあるアンガットダムというものは多くのフィリピン人が知っていますし地図にも載っています。アンガットダムが元はイポダムと言っていたのかな?と思いましたが。このアンガットダムは戦後に作られています。ひょっとしたらイポダムはこのアンガットダムの為に湖底に沈んだのかもしれません。心が痛みましたが、とにかく行ってみたいと思いました。

そして、友人が“あれ、この地図にイポ街道という道路があるぞ“と地図の一角を指しました。なるほど西南の所にありました。とにかくこのイポ街道を目指して、そこで現地で聞いてみようとホテルを出発いたしました。朝7時には友人の車に乗り込んで約1時間半くらい北に走ったところにあるSM(FAIR VIEWと言う場所)で朝食としました。なぜならば此処から北にはレストランらしいものはないので、ここで腹ごしらえをしたのであります。

食後、店員に、イポは知っているか?イポ街道は?と聞いても何人かが知らないと答えました。困ったなと思いながらレジにてお金を払っていると、奥からもう一人の店員が出てきて、イポダムを知っているし、あると言うのであります。有力な証言を得て、やはりイポダムは存在する事を初めて確認を致しました。そこへの道順を教えてもらい、再出発しました。今度は元気が出ました。とにかくまずはイポ街道を見つけようと約1時間くらいさらに走りましたが、分かりません。丁度ガソリンの給油のタイミングでしたので、ガソリンスタンドに入って給油済ました。そのスタンドで“イポ街道は何処ですか”と聞くと、なんと、このガソリンスタンドがイポ街道沿いにあるのだそうです。

この写真がイポ街道です。ガソリンスタンドから街道に出た所を撮影しました。片側2車線の結構立派な道路でした。でもここからイポには、どうして行けるのか、不安でした。2009-12-6日撮影

苦労してついにイポ街道にたどり着いたのであります。そこでイポは何処ですか?と聞くと知らないと言う。それならイポダムは何処ですか?と聞いても知らないので、さらに数人に聞いてまわると、そのうちの一人がイポダムへの行く道を知っていました。このイポ街道をさらに北上し、右に曲がって行き止りだそうです。その右折地点を間違えないように慎重に運転して北上しました。そして曲がり角に来て初めてイポダムという看板を見つけました。今までイポという固有名詞を表示してある初めての看板であります。こんなに長く走っていてもイポという文字が全くなかったのであります。勇気百倍でこの看板通りに右折しました。道幅は極端に狭く、上り下りの激しい道になりました。20分くらい走ったところに人家がありました。そうですね全部で100軒位の小さな部落なのです。車を止めて、住民にここはなんと言う土地ですかと聞くと“イポ”ですとの答えが返ってきました。ついに来たのです。幻の地、そして静岡連隊の玉砕地であるイポに!曲がりくねった道路でしたので気がつきませんでしたがさらに200メートルくらい行った所にイポダムのゲートがありそこから先には行けませんでした。管理人が銃を持って警備していました。つまりこのダムはマニラの水源のひとつなので、立ち入り禁止なのであります。

 
この左の写真がサンマティーオ村の一部地区のイポであります。ここが幻の地でありました。この道路の突き当たりが右の写真であります。門にはIPO DAMと書かれています。あまり自分の写真を載せない主義ですが、ここだけは自分の写真を掲載いたしておきました。このダムのところが玉砕の地でありました。

友人ご夫妻のご努力で、やっと見つけてきました。この地を見つけるのに本当に苦労いたしました。多くのフィリピン人に聞いてもイポは知らないとの事でしたが、まさに山奥の道の行き止りの小さな村を発見しました。その昔イポと言っていた地は現在サンマティーオという部落でした。つまりサンマティーオ村の一部の地区がイポという場所でした。ンマティオ村の中にあるイポなのでした。ですから分かりにくいはずでした。

イポダムの正門で感無量と感慨にふけっていました。また現地の人に”60年前の第二次世界大戦で、ここに日本兵がいたはずなのですが、知っていますか?と聞くと、知っているとの答えが返ってきました”何人くらいの日本兵がいたのか?と聞くと、フィフチーンとの答えでした。15名は少なすぎるなと思いました。その日本兵はどうなったのか?と聞くと、全員死んだと言っていました。そこへさらに別の現地人が、寄ってきて、少し歩くと日本人の墓がある、行って見たいのならば案内する。と言いました。本当に日本人の墓があるのか?と思いつつ案内してもらう事と致しました。
ダムの正門から行き止りの道路を500メートルくらい戻った処に、それがありました。(下の写真です)道路に面している僅か30坪くらいの広さの中に慰霊碑がありました。眼下にアンガット河が綺麗に見えましたし、僅かにイポダムの湖も見れました。

 

ここで1945年の2月から8月までの間に日米比の軍隊が交戦し約4万人の日本兵を無くしたと慰問碑には書かれていました。

“過ぐる第二次世界大戦に於いて当イポダム地区は昭和202月より8月終戦に至るまで激しい戦闘が続きました。日米双方多大な死傷者を出しましたが特に日本軍はイポ地区を含みマニラ東方山地で4万名に達する兵が祖国の安泰を祈りつつ散華されました此の地に彼我全戦没者の霊に対し哀悼の意を表し心より冥福をお祈りいたします”との碑文でありました。

 
この写真はイポのほぼ真ん中のアンガット河を見おろすことの出来る場所にある日本兵の為の慰霊碑です。右の写真は記帳書の裏表紙を写しておきました。この書には多くの慰問に訪れた方のお名前が書き込まれていました。
慰霊碑の責任者 日本国 兵庫県神崎郡市川町上田中147−2 イポ慰霊碑協会と記されていました。

記帳書の冒頭に書かれていた“墓参される皆様へ”というページは次のようでした。

 

このイポの慰霊碑は1987年5月14日に建立されました。

イポの地元の人々、ダム関係の人々、サンマティオ村、ノルサガライ市、警察関係者、その他各諸庁のあたたかい御理解をいただいてアンガット河を見おろすことの出来るこの地に完成をすることが出来ました。

このイポ地区ではフィリピン兵士、日本兵、米軍のほか、フィリピン民間人も沢山なくなっておられます。この方々に心よりご慰霊を申し上げてください。

叉、この慰霊碑が建立されるまではイポダム内に木製の墓標が元戦友によって建てられており、ダム内のある小学校のアラノ先生によって護られておりました。そのおかげで今日この地に慰霊碑建立するきっかけとなったのであります。

現在の慰霊碑はこの碑の西側のお宅の

Mr.Mansuets Mercano宅 に墓守を依頼してあります。

なお慰霊碑の土地はイポよりマニラへの帰り道の3叉路付近のサンマテオ村のサンタ・マリア御婦人より当方へ寄贈していただいております。

この方々に御礼を申し上げて下さい。

・ 旧墓標を護ってくれた人   イポ小学校女教師 アラノ先生

      新慰霊碑を御世話下さる人 隣の人 Mr.Mansuets Mercano(この方は亡くなられたようで私への対応は息子さんでした)

      敷地を提供くださった人  サンマテオ村 サンタ マリヤさん

 

この慰霊の記帳書をめくりますと、戦後60年、この地を訪れたのはわずか50名くらいの人々の中に静岡県人は皆無でした。私は静岡県人として初めてその慰問帳に記帳させていただきました。またこの慰問碑を管理している人(上記のMr.Mansuets Mercanoの息子さん)、ならびにここに案内してくれた地元の人に、心から御礼を言い、出来る限りのお金を渡してきました。

とにかく玉砕の地は、まさにドン詰まりの奥の奥地でした。これ以上はダムの為に行けません。つまり追い詰められ、最後の抵抗を試みたものと思われます。前記した“玉砕”と言う本の中には“昭和2097日に終戦を知る”と書き込まれています。

司令部の山下将軍の本体部隊も北部のキリンガンという村で92日に最後の総攻撃を仕掛けて負けましたが、この日が昭和2092日なのであります。日本の敗戦は815日になっていますが、フィリピンではこの92日が戦勝記念日になっているのだそうです。815日以降、多くの将兵が亡くなられているのは誠に残念至極であります。現に帰還した元部下の方は以下のように述べています。

“五條中隊長は9月7日には生きておられました。そして部下達に、君達は日本に帰りたければ帰りなさい。私と一緒に残りたければ残りなさい、と言ったとのことです。部下の全ての者(といっても数名くらいと思われます)中隊長はイポの山の方へ一人で上っていかれました”

食料もなく、勿論一人では機関銃も扱えませんし、最後はこのイポダムの山奥で命を自ら絶ったのではないでしょうか?

マニラに帰る時に迎え側の尾根に行けば、サンマテオ村イポ地区の全体が眺められると思い、途中で向かい側の尾根を車で20分くらい走ると、思っていた通り、ダムの全景とイポ地区が手に取るようによく見えるビューポイントがありました。


この写真がビューポイントです。イポダムが見えますが貯水量は少なめの小さなダムであります。この上流に大きなアンガットダムがマルコス時代に建設されました。イポ地区はこのイポダムの右の尾根を数キロいった所にあります。この写真の中央部の明るい緑色の所なのです。ここで玉砕したのです。僅かに生き残っていた将兵はあるものは米軍に降伏し、私の義父はこのイポから山の方へ歩いていったのであります。

ここからみると、まさにイポは山の中腹にある小さな部落であり、これ以上奥地には行けない事がわかります。また義父が自決したであろう山の様子も良くわかりました。
感慨無量の一日でした。

マニラに戻り、車はそのままマニラ国内空港まで行ってももらって、ルソン北部のラグワに飛行機で移動しました。明日からは世界遺産散策の旅になりました。


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