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セブからレイテに、そしてセブへ戻る

2009年11月29日に出国予定で、セブ、レイテを散策するつもりでした。アクシデントの連続の旅でした。

11月29日(日)
自宅を午前7時に出発し、新幹線で東京へ出て、順調に成田空港に着きました、海外旅行は通常は静岡空港またはセントレアから出国するのですが、今回は久しぶりに成田でした。
しかし、大きなアクシデントが発生しました。
なんと、私の乗る予定の飛行機(フィリピン航空)がエンジントラブルで出発できません。結局欠航になりました。楽しみにしていたセブでの夕食はお預けでした。フィリピン航空は私たち乗客を全員ホテル日航成田に案内して、明日の午前9時のFLIGHTに変更しました。しかし明日のセブへの到着便の予定がマニラでトランジットですので、直行便ではありません。これでセブ到着は明日の午後5時頃になると思われます。わざわざ直行便を選択したのに、これでは明日もかなり無駄になりますね。
しかたがないのでホテルでシャワーを浴びた後、TVで石川遼のカシオワールドでの2位の映像と横峰さくらの賞金女王のニュースを確認して、先ほど買ってきたDUTY FREEの焼酎を1本空けました。

11月30日(月)
新しい出発便は朝9時30発のPR431マニラ行きです。マニラからセブまでは国内便を利用します。直行でないのが残念です。預けた荷物はセブまで届きますので、預けなおす必要がないのがましなだけです。
とにかく、ホテルニッコウで朝食をとり、ホテルのバスに乗って、成田空港に行き、改めてマニラまでの搭乗手続きをして飛行機に乗りました、大変だったのはマニラの国際空港についてからでした、トランスファーにてセブまでのチケットをもらって、国内便に乗り換えます、乗り換えのときに現金をペソに両替し、200ペソを航空施設使用料として支払いました。でもこの200ペソを支払わなくてもいいと言われた人も居て、相変わらず適当な運営に少し怒りをお簿得ました。
この国内線に乗るのには、200ペソの支払いだけでなく、結構面倒な道順をたどり、やっとの思いで、飛行機に乗りましたが、飛行機は出発しませんでした。案の定、ここにたどり着けないお客が9名居るとの機内放送がありました。そのお客の荷物を探しておろすために出発が遅れるとの事でした。

数名の男女の団体が、常に私にくっついてきて厄介でした。どうも、私が旅慣れているので、此の人の後について行けば良いと思ったのでした。英語表示も小さかったし、トランジットなるもののやり方を知らないおばさんたちは確かに信頼置けそうな人の後をついてくるのが一番でしょう。

途中、何度も曲がり角を曲がった先で階段を下りました。そのまま空港から出られますが、右の窓口でセブへのトランジットの券を貰います。ここで券を貰うと言う概念が無い人は迷いますね。そして2階のフロアに上がりますが、まさか2階にあがるとは通常は考えませんから、ここでも迷子になりそうです。そこで国内便に乗り込むのです。少しばかりの英会話さえできれば問題ないのですが、英語の話せない人は迷子になりますね。セブへは直行便のほうが断然有利であります。前回セブに行ったときにもこの国内便への乗換えで相当苦労しましたので、直行便にしたのに、ついていません。これではJALでここまで来た方が良かった。

午後3時発の予定が約40分遅れで、飛行機は出発しセブには午後の4時40分に到着しました。ここでも、荷物の引取りの場所が、通常のところではない場所で行われましたので、場所を間違えた日本人が多数居たみたいでしたが、私たちは順調に荷物を引き取り、TAXIにて予約をしてあるMARCO POLO PLAZA CEBUに後5時30分に到着しました。TAXI代金は270ペソでした。
とにかく荷物を置いて2年前に来ていた英語学校の近くのサリサリにTAXIで乗りつけて現地のビールで乾杯しましたが、店の主(女)は私を覚えていまして、今では生徒が激減して飲みにくる客が減っているそうでした。日本人の客は殆ど居ないとの事でした。ここは韓国の学生が多かったのですがウオン安で、韓国からの留学ができなくなっているのでしょう。日本からも韓国からも来なくなった生徒で、学校経営は苦しそうであります。

ここで下地をいれたあと、もう1軒の行きつけのレストランに行ってみましたら、そこでも店員の一人が私を覚えていて、懐かしそうに握手をしてくれましたが、本当に感激しました。お客が激減し、この店の経営者も変わり、店員も辞めていったそうであります。
ここで数時間を過ごして、懐かしい昔話を話し合い、その店員もうれしそうでした。

セブの夜の街並みには大きな変化はありませんでした。

ホテルの窓から眺めるセブの街並みも変わりませんでした。
ホテルにもどり生演奏のピアノでビールを飲みなおしてセブの初日としました。

 

12月01日(火)
アクシデントの続く旅になりました。
レイテへの船旅の方法をホテルのフロントで聞いてから出発しました。ホテルでは出航が午後4時30分でピュア3から出るとの事でしたので時間に余裕がありすぎました。とりあえず9時になったのでホテルを出発しました。まず船便を確認する為ピュア3に到着しましたが、どうも様子が変でした。どうもレイテ行きはここではないようです。職員に事情を話しますと、レイテはピュア4との事でした。待たせておいたTAXIに飛び乗り急ぎピュア4へと移動しました。そうしたら午前11時に出航との事で、なんとかその船に乗る事が出来ました。ホテルのフロントでも間違えるのですね。
それでも、予定の11時ではなく、出航したのは11時25分位になりました。
セブからレイテの表玄関のオルモックまで3時間の船旅でした。
 
この船でセブからレイテのオルモックまで行きました。        オルモック港です。この港は日本軍がレイテに上陸した所です。終戦時には多くの日本の艦船がここに沈められて、見渡す限り、その沈没船で埋め尽くされていたそうです。今は平和でレイテの表玄関でした。

オルモック湾は静かで、平和でしたが、戦争の末期にはここは沈没させられた日本の船で一杯だったそうです。この港に到着して、思わず号泣した慰問団の人が居た事を思い出しました。まさにここは多くの日本兵が戦争時に上陸した港なのでした。
船の中は快適でしたが、予約してあるホテルまでの行程がいまいち分かりません。そこでTAXIの運転手数人に聞きますと、かなり遠いところで、なんと4000ペソが必要でした。
安いホテルを予約して、交通費がかかったのでは意味がありませんので、ホテルはキャンセルです。
目的を変更して、マッカーサーの上陸した海岸になるべく近くまで行って泊まる事にいたしました。調べてみると、Tacloban(タクロバン)という都市でした。オルモックからタクロバンは120ペソのバスで行きました。2時間と言われましたが、実際は3時間半くらいかかりました。日は暮れてくるし、到着したところに、ホテルはあると聞いてきたのですが、本当なのか心配でした。なんとかしてタクロバンに到着しましたがホテルらしいもがありません。バスの運転手にホテルまで乗せていってもらいました。
なんとか部屋を確保してシャワーを浴びましたが、ひやひやでした。
夕食の為に、外に出ましたが、どこになにがあるのか分かりません。ぶらぶらしながらレストランを探しましたが、わずかに日本食レストランが1軒みつかりました。高い料金でした。二人でビール2本とてんぷら、鳥のから揚げ、サラダを各1皿注文しましたら580ペソも要求されました。
帰りに立ち寄った焼き鳥やの方は安く、やはり日本食屋に入るのは今後やめようと思います。
部屋に戻り、持ってきたブランデイでちびちびやりながら、寝てしまいました。

12月02日(水)
レイテ島のタクロバンのホテルの窓から外を眺めてみると港が見えました。そこで軽い散歩をしてみました。
港には朝市が開催されていて、にぎやかでした。この港から直接セブに行く便がないか聞いてみたら、貨物便だけで、観客は乗せないとの事でした。セブに行くにはオルモックへ行くしかありません。
 
タクロバンの港に面した所に開催されていた朝市です。       多くの人が朝市を楽しんでいました。

仕方がないので、本来の目的地であるマッカーサ上陸地点へ行って見る事にしました。
バイクに荷台の付いた乗り物に乗って、約20分で到着しました。
この土地こそ米軍がフィリピン反撃を開始した記念すべき土地でした。レッドビーチと本には書いてありました。まさに日本軍の敗退はここから始まりました。見ると、海は穏やかで砂浜が広がっています。当時はこの海に見渡すが限り、アメリカの艦船で覆われていた事でしょう。逆に陸の方を見ると、かなり大きな平野です。上陸前にアメリカ軍は、ここを相当長い時間艦砲射撃を実行しました。日本軍は後方の山の方に退却せざるを得なかったみたいです。そこへ大量のアメリカ軍が上陸して、太平洋戦争の終結への第一歩になったのであります。
 
感無量のこの地にしばらく滞在し、ホテルへと帰ってきました。朝の8時でした。
しかし、このミニ旅行にバイクに荷台の付いた乗り物を使いました。いわゆるトライシルクです。価格交渉は200ペソでしたが、降りる時に運転手は500ペソを要求し、私が怒るとすぐに400ペソと言い直しましたが、私は200ペソプラス、チップ20ペソを座席に叩きつけてさっさとその場を離れましたが、険悪な空気になりました。物売りとか運転手仲間がやってきましたが、事が大きくなるとうるさいので、その場の食堂に飛び込んで豚漫を購入して落ち着きました。店の外から運転手が手招きしています。しかし無視しました。長い間その運転手は食堂の外に居ましたが、そのうちに居なくなりましたが、価格がないフィリピンでは交渉力が全てです。でも言った事と要求が異なるのは困ります。

でも僅か数百ペソで怪我をしてもつまらないので多くの観光客はあきらめて支払うのでしょうね。

オルモットまではバスでも行けますが、セブへの長い道のりを考慮して、バスターミナルまで出かけて、バンを使いました。通常の大型バスでは時間が掛かりすぎてしまいます。120ペソでした。オルモックには約2時間で到着です。昨夜は3時間以上かかったのにどうなっているのでしょうか?多分お客の為に遠くの道を走ったのでしょう。

 
この写真はオルモックのバスターミナルです。港のまん前にありました。タクロバンはトライシルク(上の右の写真))で10分くらい郊外まで走ったところでした。いずれもバスとバンに分けられています。

バスターミナルにはバスとワンボックスバン(これをバンと言っていました)のどちらかが用意してあるのです。当然バスのほうが安いですが、バスは多くの停留所で止まりますがバンは止まる停留所が少ないです。

オルモックからセブへは2社が船便を出していました。曜日により出発時間が異なりました。私の乗った会社は午後1時45分と真夜中の12時発の2便を持っていました。
午後1時45分発の船便でセブに午後5時到着です。
 
この橋はセブとマクタン島を結んでいます。遠くにもう一つの橋が見えますか?この二つの橋は共に日本政府の援助で建設されました。地元の人は日本に感謝していました。右の写真はマクタン島のホテルの中にあるプールです。ここで、泳いでいました。

夕食をロビンソンデパートの近くの海鮮料理屋で食べた後、マルコポーロ プラザまで預けておいた荷物を取りに行ってからマクタンのCOSTABELLA TROPICAL BEACH HOTELへ到着しました。

この海鮮料理屋もお客がいませんでした。つまり不景気なのでしょう、活気がありませんでした。海鮮なので味は悪いはずありませんが、広いオープンエリアのテーブルでぽつんと私達だけが食べているのは美味しくありませんね。でも此処からはセブの夜景が手に取るように見えますし、時々降りてくるマクタンの国際空港への着陸機が綺麗に見えました。少し高めの料金もこの夜景代金だと思えば良かったし、満腹になってから、ホテルに戻りました。
夜空には満月が輝いてやしの葉陰がきれいでした。

12月03日(木)
朝から空気が気持ちの良い日でした。午前中はプライベートビーチで泳ぎ、またホテルに戻ってプールでも泳ぎました。のんびりと世間話で時間を費やした後、セブCITYへ出かけました。途中、ギター工場に立ち寄って製作過程を見学し、サンペドロ要塞まで行きました。ここでまた乗ってきたTAXIとトラブルでした。本来よりも高い金額を要求してきました。もともと基本料金は30ペソですが、これがスタート時に50ペソからスタートでした。メータに蓋がしてあって見えませんでした。私がメータと言って蓋を開けさせるともう57ペソになっています。つまりホテルまでの来た料金がすでにカウントされていたのです。またギター工場で15分ほど待ってもらいましたがこの時間も20ペソプラスです。さらに合計207ペソの要求で私は200プラス15ペソのコインを5枚、つまり75ペソを支払うと、コインでなく札で払えとの主張でした。物売りが寄ってきますし、面倒になると困るので、あと20ペソの札を出そうと思いました。財布を出そうとすると、多くの物売りが覗き込もうとしますので、10メートほど下がって20ペソを取り出して支払いましたが、これでは観光客は離れてしまうと思います。

少しばかりの客しかないので、此の時とばかりに、ぼったくりをするので気分が悪くなりました。

今回、TAXIで観光したところは以下の通りです。

      サンペトロ要塞

海に面した所にある砦で、1738年にスペイン統治時代にイスラムの海賊などからの防衛の為に作られたものであります。マニラにあるイントラムスと並んで最古の要塞であります。その後、続いたアメリカ統治時代には兵舎としてつかわれました。第二次世界大戦時には日本軍の捕虜収容所としても使われました。城壁はゆっくり歩いても30分くらいで一周できます。大きな大砲が数門、城壁から外に向けられています。セブでは数少ない観光地の一つになっていました。

 

      カルボン・マーケット

セブ市民の生活必需品の、ほぼ全てのものが売られている大きなマーケットです。港町らしく、新鮮な魚介類から、衣料、雑貨、日用品から電化製品、動植物までなんでもあります。家具、手工芸品もあるし、レストランとか映画館まで近くにあります。それだけに多くの人が集まりますので、中には盗難などの被害にあう方も多いのが現実です。

      サント・ニーニョ教会

サン・オーガスチン教会(同じ名前の教会が各地にあります)とも言われていますフィリピン最古の教会の一つで1565年に建造されたが現存のものは1790年に再見されたものです。荘厳な概観から予想される内部はとても厳かでステンドグラスの窓が綺麗でした。日曜日ともなると礼拝の信者で一杯になっています。サントニーニョとは幼き頃のイエスの事ですので、ここはかつて、マゼランンがセブの女王に贈ったとされているサントニーニョ像が収められています。ここのサントニーニョ像は16世紀にセブが戦火に見舞われたときに、その焼け跡に傷一つ無く発見され、セブの人達の守護神になっているのだそうです。

      マゼランクロス

マゼランが1521年に作ったとされている木製の大きな十字架が収められている六角堂です。

フィリピンにおけるキリスト教布教の第一歩がここにあります。

 

      山頂展望台トップス

ここはセブ市内を一望できるセブ市内で最も高い山の山頂にあります。ここからの景色は見事です。しかし、前回も今回もTAXIで行きましたが、エンジンがオーバーヒートして登れませんでした。一休みして山頂に着きました。TAXIは行きたがりませんし、必ずチップを要求してきます。遠くの島々まで眺められるこのトップスは最高の眺めです。昼は観光客が、夜はロマンチックなカップルがいて24時間営業しています。


昨日の夕食時にレストランの店員に、一日の給料を聞くとその店員は160ペソだと答えましたが、それが本当とすると、生活は大変です。2年前までは韓国人が多く来ていましたが、例の金融ショックとウオン安で、韓国人の観光客は激減しています。殆どセブには来ません。アメリカ人と日本人だけだそうです。
サンペドロ要塞を見た後、マゼランクロスを見学し、サントニーニョ教会を参拝して、時間の許す限り、SMのモールでショッピングです。帰りのtaxiもホテル(COSTABELLA TROPICAL BEACH HOTEL)まで遠すぎると言う理由で乗車拒否でした。3台目のtaxiが500ペソなら言っても良いと言うので、高いけれどもOKして帰ってきました。本来は200ペソくらいの料金が妥当なのです。
本当に生存競争が激しくなりましたし、それだけ観光がしにくくなりました。
ホテルについてプールサイドで買ってきたブランデイを1本空けるまで飲みました。空は満月でした。(昨夜が満月かと思いましたが、今夜がまん丸でした)
日中のトラブルを忘れて、のんびりと時間を使ったセブの夜でした。

12月04日(金)
今日は午前中にスキューバダイビングの予定です。2500ペソで出来ますので、ダイブのつもりでしたが、海からの風は心地よく、屋根のついた休憩所のベンチに到着したら、この風に当たっていたくなりました。本当に心地よく、このベンチで昼寝にしました。
  
セブ(マクタン)の海からの風に、身も心も預けた至福の時間を費やしました。

 
このビーチで寝そべっていました。正面の突堤の先にある東屋がとても気持ちよく、なんとも言えない海風にうとうとと昼寝をして過ごしました。その海の中に、不思議と1本の植物が生えていました。(右の写真)この建物が泊まったホテルです。この前にゼロ戦が沈んでいるのです。

この昼寝のビーチから300メートルくらいの所に、実はゼロ戦が海底に横たわっています。前回のセブ訪問の時に、この海をダイブして見た事があります。平和な今では想像もつきませんが、このセブでも日本軍は戦争をしたのであります。

 

私は体調もよく、順調に計画をこなしている。

12
4日の夕方に、セブからマニラに移動した。

空港への夜中にギターの工場があるので立ち寄りました。安いものは2500ペソ(約5000円)から10種類くらい段階が分かれていて、最高は80000ペソまでありました。工場では4人くらいの職人さんがこつこつと作っていました・全て手作りでした。

 
ここがギター工場の正門。                 工場ではこのような少人数で加工をしていました。

セブの国際空港の南東側にありましたが、知っておくと便利なものです。友人が7500ペソのものを購入しました。ギターのケースもついてこの価格ですのでお薦めでした。


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