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本文は2000年春に掲載したものです。しかし、2004年、自衛隊のイラク派遣に鑑みて、幾つかの文書を追加いたしました。

1985年の夏休み(今でも忘れられない日航ジャンボ機の墜落の時、TACはクウェートのHILTON HOTELでこのニュースを聞いた。すぐに日本に電話して友人、知人、会社関係者が この事故に巻き込まれていなかったか確認を急いだ事が昨日の様に思い出されます。)にパキスタン、クウェイト、サウジアラビア、UAE(アラブ首長国連邦)を歴訪した。 この夏くらい暑い夏は今まで味わった事は無い。そして引き続いて、その年の秋に各国をもう一度巡回した。 それぞれのお国についてご紹介する。

中近東全体として
*これから行かれる方に参考になると思われる事

1.良かったと感ずる事
・オイルマネーがふんだんに動き回っている地域です。商売をするならば昔も今もMIDLE EAST
・そのイスラム文化について学べた事
・この地域の民族的、宗教的な位置付けを学べた事。
・この地球で最も暑い国は南洋の国では無く赤道からはるかに遠いクウェートであることを学んだ。
・砂漠の砂とほこり、そして容赦無く照り付ける太陽にも耐えうる商品SPECを確立で来た事。

2.気を付けたい事
・女性の顔、腕、手足がもろに出ている写真、VTRは空港にて取り上げられる。
・入国時に全ての持ち物が検査される。その中で酒、ワイン、ビールはNG。(パキスタンはok) また、粉薬は持っていか  ない様にした方が良い。ドラッグと間違えられて相当閉口しました。
・入国時、必ず宗教を聞かれる。その時に間違っても無宗教とは言ってはいけない。もし言った瞬間から犬とか猫と同じ  扱いになる。 仏教と言いましょう。(勿論クリスチャンの方はそのように)
・女性の写真は勝手に取らないように(まだ魂がカメラに持っていかれると思っている人が多い)
・お祈りが5回/日ある。その時に出くわす時の心の準備が必要。
・水は当時ホテルでは¥1,000/リットルでした。(ガソリンの10倍)

3.おみやげへのアドバイス
・意外にSONYとかハイテク製品が安い
・パキスタンではジュウタンを手に入れてみましたが・・・・?

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■パキスタン
多くの国を訪問しましたが、この国はイスラムなのですが、酒も飲めるし、女性にも会える。緑豊かで砂漠はない。 中近東と言うよりも、なにか東南アジアを象徴したような国でした。 この国が私が訪問した後、核保有国になろうとは思いも及びませんでした。それはそれは貧しい環境の中で 物質を求める国民の姿を見たからです。
私はわが社の商品を売り込むためにここを訪れました。全く販売のチャンネルも無い、サービス網もない、でも日本商品は売れる。バイヤーは”MADE IN JAPAN ”のものは高く売れる。是非、輸入したいと毎日、言ってくる。
結果的に
3ヵ年がんばってみましたが円高で、採算が合わず、本格的な市場導入は断念いたしましたが、若い時の失敗としては大きな経験をさせてもらいました。

カラチのホテルの外
きれいな公園だった。イスラムの国でもここはみどりが豊富である。幾つか行った国でこの国でのみ下痢で苦しんだ思い出がある。1985-8月撮影
いつの日か、若い社員が私の意思をついでチャレンジしてくれたら良いが・・・・・私は失敗したが、決して失敗とは思っていない。なぜならば私がチャレンジした3年間の輸出品の品質はこの砂漠の中でも、立派にその性能が発揮され、少なくともこのブランドは、パキスタン国民に植え付けられたはずである。現地商社は、会うたびに私にはこの優秀な商品との出会いを感謝して、ありがたがっていた。この信用がいつか、花開く時がきっと来るから!

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■クウェート
クウェートは世界一暑い国です。その暑さは肌で感じた人でないと分かりません。汗腺の穴がプチッと開いてドット汗が出てくる感触は、本当に辛かった。真昼に温度計を見たら40℃を越えている。なるほど、これではみな白のワンピースを来ているわけだ。 裸でいる方がはるかに暑い。夕方になると日が沈んでも蒸し暑い。砂漠の国で蒸し暑いなどと言う単語を使うとは思わなかった。それでいて、友人の家に行くと、冷房がドカンと効いていて思わず寒く感ずる程である。(電気が安いので省エネの概念が薄い) この国があの湾岸戦争でイラクに侵攻されて、跡形も無く破壊されてしまった。

クウェートのダウンタウン
クウエートのHILTON HOTELの私の泊まった部屋から見たクウェートのダウンタウン。この時にはこんなにきれいな大都市だった。世界一の金持ちの国の一つとして恥ずかしくない景観だった。でも全てが例のイラクの侵攻で破壊されてしまった。(1985-8-11撮影)
クウェートタワーとアメリカ大使館
この写真もHILTON HOTELから眺めたクウェートのシンボルのタワー。手前のプールがある所がアメリカ大使館。この写真はひょっとするとスゴク価値があるかも!(湾岸戦争でこのアメリカ大使館は大破して今は面影は無いはず、そしてこのクウェートタワーもイラクの攻撃の的になった。(1985-8-11撮影)
夜のクウェートタワー
このタワーは展望台だるだけでなく、レストランであった。数回このタワーで友人と食事をしたが、その多くの友人は皆、戦争で連絡が付かない。恐らく亡くなった、折角構築した販売チャンネルも壊滅した。(1985-8-11撮影)

来る日も来る日も、交渉は難航した。折角切り開いた販売チャンネルが壊滅寸前であった。我々が築いた信用が音を立てて崩れていく気がした。ここで食い止めなくては・・・・・と毎日毎日、我々の誠意と性能の優秀さを理解してもらうための苦闘は続いた。結果的に3ヶ月間の努力と忍耐で、我々の技術と信用を現地人が認めてくれたので、交渉は成功した。
でもこの間の苦しさは今でも忘れない。仕事の苦しさ以上に、天候(暑さと寒さ、ムットする湿気、砂埃、)による体力の消耗は現地で味わった事のある人でないとご理解をいただけないであろう。
皆様は”暑い”というイメージはご理解いただけると思います。
でえもこの暑さが並ではありません。日中では汗がプチュッと吹き出てくる感じです。そして夕方になると、日本の梅雨時なみにムッとする蒸し暑さは以外です。湿気が結構多いのです。ペルシャ湾が目の前ですので、そこから湿気が市内に流れてくるのです。
さらに意外な事は、冬場の夜には結構寒く感じます。部屋にはストーブが存在する事を以外に、知られていません。
そして、日本では味わえないのが砂埃です。粒子が細かく、車とかエアコンの熱交換器がすぐに目詰まりを起させます。さらさらとしたこの砂こそが、日本製品の天敵なのです。

  ▲アランビアンナイトの世界
毎日毎日、続く、交渉が2ヶ月を経た頃、現地の弊社のパートナーから、自宅に招待したいと言って来た。
ここには、酒も無い、女もいない(少なくとも女性を見ることは皆無である。皆、家の中に閉じこもっている)、ばくちも無いしゲームも無い。・・・現地の駐在員は日本からゲームを持ってきていたが・・・・。飲み物と言えばざらざらとしたアラビアンコーヒーだけであった。だからクウエートとかサウジアラビアへの出張は通常人気が無いのが本音であった。
でも折角のお誘いなので、仕事が終わってから、ご自宅にお伺いする事にした。
疲れた身体に鞭打って、仕事が終わってから(中近東では午前中に4時間働いて、正午から午後4時までは休息なのです。この間に食事をしたり、家に帰るのもいるし、ゆっくりと身体を休めるのがコツ、そして午後4時から8時まで仕事をして終業となる。要は午後の暑い時には仕事にならないのである。そのくらい暑いのです。)午後8時30分に迎えの車に乗り込んだ。
初対面のパートナーの運ちゃんはクウエートのダウンタウンにあるHILTON HOTELを出発して、一路、パートナーのご自宅に向った。私は30分も走れば、到着するものと思っていたら、1時間たっても走り続けている。
どこまで行くのか?と運ちゃんに聞くと、どうやらサウジアラビア国境に近い、別宅みたいだった。ここでもし、車から降ろされたら、間違いなく命は無いなと思った。
(ご承知の通りイラク侵攻でこの地域もイラク軍の略奪にあったのです。)
午後も10時を過ぎた頃、砂漠の中に大きな家が現れた。大きな門に勢い良く入っていった車が奥の本宅の玄関にたどり着いた。車から降りると、熱波が湿気を含んで、汗が吹き出る。夜でも結構暑い。かなり暑い。
玄関に入った。今度はヒヤーとした冷風が顔中をなでてくれた。すごい、玄関まで完全冷房の家であった。
そして、次の間に通されてびっくりした。なんとその部屋の壁にはハワイのワイキキビーチの壁画であった。
こんな砂漠のど真ん中の一軒家が、なんと冷房完備でワイキキビーチの壁画があるとは・・・。
その部屋は20名くらいの宴会が出来るように準備されていて、私が最初の客みたいであった。
そして、召使が出てきた。
私はどこに座れば良いのか?問いただし、言われた席に座った。
程なく、ご主人であるパートナーが出てこられて、型通りの、挨拶があり、今夜は、私のために、ご主人の友人、知人が宴会をしてくれると言うのである。
まさか?あっけにとられている私に向って、何を呑むの?と言ってきました。  またアランビアンコーヒーか・・・と心の中でつぶやいたが、一瞬、頭が廻らずに黙っていたら、ご主人が、ミズワリ?と聞いてくる。ミズワリ?なんて言う英語、あったかな?とぼんやり考えていると、ひょっとしたら”水割り”かな?と思い、Do you have beer?と聞いたら、答えはYesと言って、奥のカーテンを引いた。
なんとそこには、ジョニクロとビールがずらりと並んでいた。
クウエートに来て、毎日毎日、仕事仕事で飲みたくてもアルコール類は全く手に入らなかった。
(当時はアルコール類は持っているだけでご法度でした)
でもここには、たっぷりとある。もう待ちきれなかった。ダブル プリーズ!と注文して、宴会が始まった。
酒を飲みつまみを口にしつつ、ご主人と日本の話などをしていると三々五々、友人知人が訪れてきて、満席になっていった。
上座には明らかに国王一族と思われる主賓の方が座られた。頭につけている輪が金色で違っていた。そしてこの砂漠の中で山海の珍味が山と積み上げられ、お酒と共においしくいただいた、さらに驚いたことには女の人の踊りが3回も実施され、その踊りの見事さにこころを打たれた。女の人を見ることも出来ない国で、踊りを見せてもらったのである。
そして集まったご友人が数名でアラビア楽器を使って数曲を奏でてくれたのである。
私のためのラッキーミュージックなのだそうです。
本当にありがたかったし、この宴会があった次の日から交渉はみるみる旨くいき、我々の思う方向への収束を可能したのであります。
クウエートへ来て一度も口にしていなかったアルコールを浴びるほど呑んで、楽しい曲を聞かせてもらって、綺麗な女の人の踊りを楽しんだのはわが社の中でも多分私だけであろう。まさにアラビアンナイトの世界を味わいました。翌日はどうして自分の部屋までたどり着いたのか良く覚えていませんでした。そのくらい夢心地の一夜でありました。
残念ながら、この宴会に同席したほとんどの人達はイラクの侵攻で、殺されてしまった。
私の為に奏でてくれたラッキーミュージックであったが、奏でた人があと数年で殺されるとは、私はその時にはまったく予想もしなった。
わずかに当時の営業部長が”今はイラクはイランと戦争しているが、それが一段落すると、クウエートに戦いを仕掛けてくると思う”といっていた事を思い出す。それほどクウエートは裕福な国なのです。裕福だからこそその国民は遊んでばかりいて、仕事とか国防にも外国人に依存している事が致命傷になってしまった。このアラビアンナイトの一夜を経験して2日後にあのJALが群馬の山の中に墜落したのでありました。クウエートのホテルのTVでこのニュースを聞いたのがいまでも忘れる事が出来ません。死とは何でしょうか?
2004-2月にこのクウエートがイラク支援の前線基地として、自衛隊の諸君が旅立って行きました。



■UAE
UAEは中近東のオアシスです。この国だけお酒は飲めます。マリンスポーツも盛んですし、サッカーも結構強いですよ。お金が一杯ある国ですからインド、パキスタン、スリランカ、フィリピン、韓国などから出稼ぎに来ている人が多くいました。特にパキスタン人が多いですね。 金の取引きも盛んで、お店は活気が有ります。食べ物はほとんどインポートですからそのつもりで火に掛けた物を食べたいですね。とにかくお金さえあればこんなに楽しい国はありません。とても中近東の砂漠の国とは思えません。
アブダビのヨットハーバ
どこを向いても砂漠の国にこんな豪華なハーバがある。金持ちはその資産は日本の国家予算くらい持っています。ここはアブダビのホテル前のヨットハーバーです。このホテルに1ヶ月くらい粘って販路を開拓しました。この向こうの海は有名なペルシャ湾です。休日にはこのペルシャ湾で泳いで見ましたが、懐かしい思い出になっています。(1985-9月撮影)
アブダビのヨットハーバ
休日にはきれいな外国の女性を乗せてクルージングとしゃれ込む現地人。この海が戦争の現場になるとは当時は思いませんでした。アブダビは今では観光のメッカですが、その当時は観光客の入国は皆無ですべてビジネスVISAで入国したものでした。その入国もかなり厳しく、持ち物は全てカバンから引き出されて、再梱包が大変な思いをした記憶があります。また粉薬を覚せい剤と間違えられたり、販促用のVTRを女性が映っていると言う理由で、出国まで保管扱いで没収されたのもびっくりした思い出です。
但し、中近東でこのUAEだけは酒が飲めました。
アブダビのHILTON HOTEL
周りは砂漠ですが海の方にホテルが見える。現地人は無税であるが外国人はこのホテルで食事をするのも宿泊もバカ高い税金を支払う。ドバイまで商品の輸送試験をした思いでもあります。今では日本から自由に観光客が行っていますが、当時は観光は考えられませんでした。


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