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沖縄訪問


2003年2月27日に4年ぶり、6回目の沖縄訪問を果たしました。
今回は仕事で訪れたのでしたが、久しぶりの沖縄を眺めて来れました。

●2月27日(金)

もう6回目の訪問になるのか?
まだ日本に復帰しない頃、車が左側通行の頃から訪れている。
つい最近の訪問は1999年の正月に、カミさんと二人で来たのを覚えている。
今回は、一人旅の為、気が楽だ。
2月27日(木)の午後に那覇空港に降り立った。
得意先を訪問し、仕事を済ませた。
久しぶりの沖縄は、変化した部分と、変わらない部分を示してくれた。
昔は、金持ちしか入れなかった料亭も、今では予約さえしておけば、料理にありつけた。
有名な現地の料亭での宴会が第一夜にやってきた。
かにとか肉料理が独特で、ゴーヤのお通しも、口にあっていた。
特に苦くはないし、酢が利いていて、これなら、いけると思った。
例によって、酒は飲まないので、もっぱら料理に箸を運んで、沖縄の話に花が咲いて、小一時間した頃に、沖縄の踊りが、お座敷にて披露された。
沖縄の宮中の踊りと漁師の踊りと民謡の3本であった。
その昔、中国からの使者に対し、ただ、おもてなしをするのではなく、心からのおもてなしをあらわす為にこの琉球の踊りが舞われたのだそうです。
それも、老若男女を問わずに、また、沖縄全島のいたるところで、踊られていたのだそうです。
故に奥が深い、踊りになっているわけですね。
宮中踊り 国際通り
沖縄訪問の夜のお座敷で、宮中踊りを堪能する!(2003/2/27撮影)
国際通りの夜の賑わい。昔のままのにぎやかさ!(2003/2/27撮影)

お客へのサービスで、各お座敷を巡回して踊るみたいであったが、観光客にこのように、
もてなすのは良い事ではないでしょうか。

●2月28日(金)

朝早くからお得意様を数軒回り、久しぶりの訪問で、多くの客先に喜ばれた。
来てよかったなと思いつつ、さらに次の商談に布石をいくつか打って、一日の終わりとした。
夕方の5時過ぎに、とりあえず、首里まで行って、守礼の門を見て首里城跡にて夕日を眺めた。
守礼の門  首里城全容
有名な守礼の門。その昔この門を通って多くの外国の大使が心をときめかせた事であろう
首里城の内部です。数年前に大改修して、とてもきれいになりました。昔の面影は・・・(2003/2/28撮影)
首里城 首里城
首里城から見る那覇市内です。遠く東シナ海は夕日に光っていました。その昔ここから多くの外国船が浮かんでいる光景を眺めている絵が多く存在します。
ここから逆に城の方を見た写真が右です。森の中に、朱色の首里城が、美しいコントラストを発しながら、存在している様は見事でありますし、見る価値大です。(2003/2/28撮影)
夕日は那覇市内を手前に映してあの東シナ海に沈んでいくのでした。
時は夕方の6時30分、今から700年前にも、ここで、この夕日を見た中国人はどのような思いが脳裏をかすめたのであろう?
ご承知とは思いますがここ首里城ではその昔、中国からの使者を、丁重におもてなしをしたのだそうです。
ホテルに戻り、国際通りをひやかして、その日は就寝になった。

●3月1日(土)

前日の天気予報は雨であった。
しかし、予想に反して、まずまずのお天気で、薄日も差しています。
実はこの日、航空管制のコンピュータの石(多分、ICチップ)を交換したところ、動作が不良になった。
故に日本の空はまったく飛行機の発着が出来ない状態になった。
国際線も国内線も全て駄目である。
帰りたくても帰れない。
そこで、土曜日でもあるし、見たいところを見て回る事にした。
いつもはレンタカーですが、今回はレンタルバイクにしてみました。
沖縄の渋滞は、物凄いのです。モータリゼーションが発達していますので、道路が間に合っていかないみたい。今、那覇ではモノレールの建設が急ピッチで行われていました。
2003年8月10日に開通するのだそうです。
モノレール     那覇   
沖縄の渋滞はひどい。この解消になるか?このモノレール!バンコクに、よーく似ていますね(2003/3/1撮影)
那覇の港をひとまたぎする大橋です。観光spotとしても交通渋滞緩和の一役も買っています(2003/3/1撮影)

空港から、那覇市内を抜けて、首里まで17分間で結ぶのだそうです。
これが出来たら、空港へのアクセスは、モノレールが主体になると思われます。
そういえば、今から5年くらい前のバンコクによく似ていますね。
朝早くホテルを出て、まずは、今回は東海岸を走ってみる事にしました。
いつもの通りに行き当たりばったりの旅の始まりです。
まずは、首里を抜けて、金城町の石畳を見学しました。
石畳 石畳
石畳の入り口(左)と中間部(右)(2003/3/1撮影)
石畳は全国にありますが、ここの石畳は沖縄という島国にある事に多くの教訓を教えてくれています。
この石畳につながれるように一つの橋がかっかっていました。
その昔、重要な幹線道路であった。
このあと、西原という部落に出た。丘の上から見る海は朝日に光っていました。
そしてこののどかな街を通り抜けようとしていた時に、“西原の塔“という道標が目に入りました。
西原の塔 牧志
左は西原の塔の全景、右は牧志のアーケード(2003/3/1撮影)

お参りをして、一路、北にバイクを走らせました。
国道329号線は、思っていた以上に整備されている。これなら順調に行ける。
中城(なかぐすく)を過ぎて、北中城に差し掛かると、沖縄県総合運動公園がある。
そこを右に曲がり、泡瀬を目指す。程なく、県道に差し掛かるので、その県道沿いに行くのであるが、この県道も片側2車線で、すばらしい。
基地があり、特殊事情もあるので、止むを得ないでしょうが、投資のし過ぎの様に思えた。
川田というところを右に曲がると、ほどなく伊計島への入り口の道路に出てくる。
“有名な海中道路”である。
海中道路 展望台
伊計島への海中道路のほぼ中間に位置する所。風がさわやかで、まっすぐな道路が一路伊計島へと続いている。
左は屋嘉名の展望台から海中道路を眺めたところ。近くの橋ではなく遠くに小さく見える赤い柱の橋が海中道路なのです。(2003/3/1撮影)

快適な片側2車線の道路は、この大きな海を埋め立てて作られた。
この伊計の島の生活はどんなに便利になったか、想像できる。
でも、その投資額に匹敵するだけの、利用価値はあったのだろうか?
近年、公共事業に対する、見直しが叫ばれているが、どうだろう?
でも、沖縄の県民には、米軍基地を本土の数倍負担している背景がある。
すばらしい、道路を、快適にドライブした後は、少し戻って、屋嘉名の展望台まで足を伸ばした。
きれいな海と、海中道路が眺められるSPOTだ。
ここで一息入れたあとは、今度は海沿いに、具志川市を通り、石川市へと進む。
いずれも快適な舗装道路である。
国道329へ出ると、さらに快適になり、宜野座村へ出てきた。
たまたま今回の選抜大会に出場する宜野座高校の校門の前を通過した。
宜野座高校 二見海岸
たまたま通った宜野座高校。選抜出場おめでとう。(2003/3/1撮影)
こんなにきれいな海にあの普天間の基地を移設するの?(2003/3/1撮影)
たまたま、卒業式があったこの日、宜野座高校の甲子園での活躍を祈念する。
この写真をほしい方にはオリジナルをお分け致しますので、ご一報ください。
その後、国道329に分かれて、今話題の二見の部落へ行ってみた。
静かで穏やかな、村でした。
ここのあのヘリコブターの基地を作っていくのかな?
少なくとも、かなり大きな道路の建設が行われていた。
土曜の午前でしたが、行きかう車もなく、こんなに過疎の村にこのような道路は不要かも知れないと思いつつ、きれいな海を眺めながら、ドライブは続く。
東という村で、塩屋への道に入る。
ものの10分もすると、東海岸から西海岸に抜けられた。
塩屋湾が見えてきたので、そろそろ、Uターンかなと思い、海岸沿いに南へと方向を転換した。
程なく、今帰仁(なきじんと言う)への分岐点へ差し掛かる。
昔、カミさんと訪れた、今帰仁城跡を見学する。
今帰仁城跡   今帰仁城跡
世界遺産の今帰仁城跡の入り口。かなり整備され、その昔の何も無かった時の遺跡も懐かしかった。
中は見事な石の門の連続。(2003/3/1撮影)
入り口がかなり整備されていた。昔は、何も無かったと記憶している。
世界遺産のこの今帰仁城跡をゆっくりと見て、今度は、海洋博公園である。
 海洋博公園 海洋博公園
海洋博公園の入り口の花壇。正面には伊江島が手に取るようです。(2003/3/1撮影)
中にあるプールではいるかのショウが始まっていました。5回/日(2003/3/1撮影)
海洋博公園 国際通り
公園の中にある水族館の入り口です。(2003/3/1撮影)
左は国際通りの賑わい(2003/3/2撮影)

あの輝かしい海洋博覧会の跡地であるが、今では入場は無料で、水族館とか植物園などがあって、県民ならびに観光客の憩いの地になっている。
しかし、周囲は営業を止めたであろうホテルがそのままですし、みやげ物やとか駐車場も、一部はさびれたまま、置き去りになっている。
本当の観光地にするのならば、このような、後ろ向きな設備は撤去し、本当にお客様を迎える姿勢を示さないと、お客は来ないであろう。
園内は1周乗り放題の電気自動車が走っている。(¥200)これを活用しないと、上り下りで、結構疲れます。
そうこうしている内に、なんと雨が降りだした。
ここに来て天気予報が当たってしまった。
雨の中、ずぶぬれになって、那覇のホテルまでノンストップで帰って来た。


●3月2日(日)

朝、最高の天気で目を覚まし、ホテルの朝食を食べて、嘉手名へと向かった。
ここは極東最大の米軍基地がある。
琉球村 嘉手納
琉球村入り口です。中には沖縄の文化とか習慣を伝える各種の館があって、沖縄を身をもって体験ができます。(2003/3/2撮影)
左は嘉手納基地への航空機の進入塔。これを目印に離発着が行われる。なんと国道58号線の真上を通過するのです。(2003/3/2撮影)

ここを通り過ぎて、左に曲がり、琉球村を訪れた。
昔の琉球の暮らしぶりがここへ来れば味わえます。
さらに、近くの残波岬へ行ってみた。
残波岬 残波岬
灯台の近くまで飛び散る波。遠くの波はさんご礁環です。(2003/3/2撮影)

昔、訪れたときと変わらない波が、岩を洗っていた。
数人の釣り人があの大海原に糸をたらしていた。
沖に波砕けるさんご礁環が美しい。
時間の関係で、ここから南に引きかえし、読谷村へむかう。
残波岬 読谷村
残波岬の北側の絶壁と読谷村にある象の檻。(2003/3/2撮影)
有名な“像のおり”を見ながら、複雑な思いに襲われた。
これが出来てもう50年近くなるであろう。

バイクはこのまま、宜野湾に抜けて、さらに那覇も突き抜けて、旧海軍司令部壕へ着いた。
“忘れられない20世紀の爪あと”というパンフレットがチケット販売所においてありました。
旧海軍司令部壕 旧海軍司令部壕
左は旧海軍司令部壕の入り口です。
右は旧海軍司令部壕の外から見た海岸。(2003/3/2撮影)
これは、ここの司令官であった大田少将が自決の前に海軍次官に宛てて、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えたものです。
一部を紹介すると“県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残るを老幼婦女子のみが相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身を以って軍の作戦に差し支え無き場所の防空壕に避難・・・。しかも若き婦人は率先軍に身も捧げ、看護婦はもとより砲弾運び、挺身斬込隊すら申し出る者あり・・・・。県民に対し後世特別の御高配を賜らん事”で結ばれています。
中の司令官室にはあの有名な大田司令官の“大君の御旗のもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり”という愛唱歌が鮮やかに残されています。
その後、糸満に足を伸ばし、“ひめゆりの塔”をお参りしました。
ひめゆりの塔 ひめゆりの塔
この木の下にある天然の洞が野戦病院でした。
ひめゆりの塔です。ここであの残念な歴史があったのでした。(2003/3/2撮影)
まさに大田司令官の訴えたものの代表的な事例がこのひめゆりの塔であります。
ここには4度目のお参りでしたが何度訪れても、頭が下がります。

そして、摩文仁の丘にやってきた。平和祈念公園である。久しぶりに来て見たら昔よりもいろいろな設備が出来ていた。
摩文仁 摩文仁
摩文仁の丘です。とてもきれいな景色でした。しかしあの1945年の6月にはこの海は米国海軍の艦船で埋め尽くされ、この正面の丘から日本兵が万歳を叫びながら海に向かって飛び降りて行った歴史を忘れてはなりません。(2003/3/2撮影)
沖縄県平和記念資料館の中庭の入り口です。沖縄独特のお守りのシーサがかわいいですね。ここはきれいな花で飾られていますが、沖縄のこのたびの戦争の各種の資料を平和の為に展示されています。是非訪問してください。(2003/3/2撮影)
摩文仁 摩文仁
>沖縄県平和記念資料館の2階からの眺めと左は入り口です(2003/3/2撮影)
特に沖縄県平和記念資料館が出来ていた。さらにこの沖縄戦にて亡くなられた多くの人々の記念碑がお名前を刻まれて建てられていたので、是非ともお参りされてほしいものです。
沖縄戦の象徴であるこの丘は、今は平和で美しい。
バイクはその後玉城へと進み、玉泉洞に立ち寄ってみた。
いまでは名前が変わり、沖縄パーク、玉泉洞と言うのだそうです。この中にある鍾乳洞は恐らく、日本の中にある鍾乳洞ではその規模と美しさでは屈指ではないでしょうか?
一度見ておく価値は十分にありますね。
そろそろ那覇に戻る時間になってきたので戻るようにしたのですが、思い切って、知念の村を経由して与那原を通り、首里に出て帰りました。
与那原は考えていたよりも大きな街でしたし、途中の景色も沖縄らしさがあり、このコースで帰ることをお奨めしたいと思います。
羽田空港
帰りの羽田空港に着いたのは午後6時過ぎでした。モノレールの窓から富士山がきれいに見えました。こんなにきれいな富士山が東京でも見えるのですね(2003/3/2撮影)


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